思考は熱いうちに壁ドン

みんなキモくてみんないい

答えはないけど考え続ける

 つれづれ思いつくままに書くから何書いているのかわからなくなってきてます。
 コンテンツ、というか小説って何だろうなと、もうずっとずっと考え続けてるけど答えがでない。あるときぱしっと決まったかのように思っても、熱が冷めるとなんかしっくりこなくなる。定義を文章にしてみても、脳みそのもつ「しっくりこない」が邪魔してしまう。たくさんの、百人程度(ていどってなにさ)に共感を貰って文章のわけのわからなさを無理矢理しっくり見せているようにできる能力があればいいんだけど。それこそコンテンツの、小説の神髄ではないのかとふと思う。

 コンテンツってなんだ。
 ずっとずっと考えてるけど、人にとって必要なものだと直感として持っている。
 何故かは説明できませんが、そう思うのです。
 そういった言葉にできない「ぬるさ」というのは、自分の甘えでもあって、優柔不断なところでもありますよね。人様に説明をするためには、ときにはクールに決めたいときに、伝えるときに必要なのかもしれない。相手のことを考えられるような、思考形態も持つ必要があるのかもしれません。それは意識してクールスイッチを上げるものだろうか。むしろスイッチを意識せずに思考できるからうまくスマートにできるのかもしれない。さぁ何を書いているのかわからなくなってまいりました。

 また違う話をしますね。
 かなり話を変えますね。
 思うのは、みんなたくさんの人がいて、たくさんのおかしな人がいるのだけれど、ある一線は守っていて、それは倫理観と言うより矜持というのに近いものであって、うーん、なんといえばいいかな。格闘技の先生が弟子を締め上げて「技はこうかけるんだ」といって説明しているのにボキッとやってしまったら一瞬で「せんせい」と、師として仰いでいた気持ちが冷めるし、打撃でも寸止めで教えるときに感情にまかせて振り抜いてしまったような。そんなダサさがネット上のベテランの人が個人ユーザーを対象にして起きているのを見かけると、ふと師と弟子の武術の手習いを想像してみていたりしてました。いつの間にか傷つけているのに気づかないのかなと、ときに想像してました。エアリプではなくネットで見かける行為でです。
 別の方向性はないかと模索しているところでもあります。だってネットのコンテンツがユーザーと直結していつ爆発するわからないサービスになりつつあるのだから。UGCの可能性はまだまだもっといいものがたくさんある。それが何故減っているのかというのはまあ年齢を重ねたというのも一つなのでしょうか。仕事もいそがしいし。近頃はカラオケのシステムみたいにゲーム実況があれば楽しいのかなと思ったりもします。
 話がぐるぐる変わります。
 ユーザーが「観る」側に変わってしまったからだよなあ。ヲチ。「観る」が解説者を求めて、「観るグループ」>「作る人」。これはどうにかしたかった。皆で作って楽しんで、楽しんだ先に多様性のドアみたいなのができあがっていて、それをくぐると別の感性が生まれてくるような楽しさが無意識に起きていけばなあ。ドアの作りを検証するのもいいけど、はじめはくぐればいんですよね。わくわくしてくぐればいいじゃない。あとでがっかりすればそれはそれでいい思い出になるかもですよ。UGCの火は赤くなって燃えてしまっても消えて欲しくない。
 ぼんやりと思うことはもうずっと続いています。